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花巻市(歴史)概要: 花巻市周辺は現在でもアイヌ語と思われる地名が多く残っている事から当時は多くのアイヌ人が居たとも考えられています。
その影響からか、当地は蝦夷の勢力圏と胆沢城や志波城・徳丹城を結ぶ大和王権の勢力圏が交じり合う地域で、坂上田村麻呂が蝦夷東征を行った事から、市内には清水寺や円万寺観音堂等、田村麻呂が開創したと伝わる社寺や伝承等が伝えられています。
蝦夷の中心人物だったと思われるアテルイが、坂上田村麻呂に降伏後、謀略によって殺害された後は、大和王権に従った蝦夷である俘囚を束ねる安倍氏が俘囚長として当地を支配しています。
花巻市の中でも花巻城(花巻市指定史跡)の前身である鳥谷ヶ崎城は安倍氏が治め、それを見下ろす胡四王山には対蝦夷の防衛施設があったとされます。
「前九年合戦」で安倍氏が没落し、「後三年合戦」後に奥州藤原氏が台頭すると、その支配下に入り、藤原清衡が丹内山神社を篤く信仰する等文化面で大きな影響がありました。
しかし、文治5年(1189)に発生した奥州合戦により源頼朝率いる鎌倉軍が平泉に侵攻し奥州藤原氏は滅亡しています。
中世に入ると花巻市を中心とする稗貫郡一帯を奥州合戦で功績があり当地を与えられた稗貫氏が支配しています。
稗貫氏の出自は諸説あり、伊達為家の子供である伊達為重が稗貫郡に下向し「稗貫」姓を掲げたとも、藤原北家流だったとも、藤原流中条家の分流とも云われています。
南北朝時代には、当初、南朝方に与したものの、有力武将だった北畠顕家が没すると、北朝方に転じた為、南朝方の南部政長の侵攻を受け、興国2年(1341)に大敗を喫しています。
室町時代に入ると稗貫氏は奥州探題大崎家に与し、南下を画策する南部家と合戦を繰り返しています。
稗貫氏は当地域を治める為、軍事的、政治的に優位な鳥谷ヶ崎城を本城とし独立を保っていましたが、天正18年(1590)に発生した豊臣秀吉による小田原の陣へ参陣が果たせず、秀吉からは不快をかい奥州仕置によって淘汰されます。
天正19年(1591)、稗貫広忠は理不尽な裁定に不服だった事から、同じく改易された和賀義忠と共に挙兵し和賀・稗貫一揆が勃発しています。
広忠は旧居城だった鳥谷ヶ崎城を攻め立て、落城寸前まで戦況を有利に進めていましたが、豊臣家の奥州仕置き軍が城方の援軍に駆け付けた為、戦局は一転し和賀義忠は討死、広忠は戦線を離脱したものの程なく死去したと伝えられています。
その後、稗貫郡が南部氏の支配下になると、現在の花巻市周辺が伊達領に接する事になった事から、軍事的に重要視され、重臣である北秀愛を8千石で配し南方の要としました。
秀愛は地名を「鳥谷ヶ崎」から「花巻」に改め、花巻城の拡張整備や、城下町の整備に尽力しています。
江戸時代に入り盛岡藩が立藩すると、南部家が藩主を務めた為、花巻郡代にも就任した2代目であるは北松斎が引き続き花巻城代として当地を支配し、現在の花巻市の基礎となるような町づくりを展開し、奥州街道を城下町に引き込み四日町や一日市、里川口を商人町として周囲から商人を集め、経済的基盤を確立しました。
その後経済の中心地は上町周辺に移り、清水甚兵衛や佐藤又兵衛などの豪商が軒を連ね、今のアーケード街へと繋がっています。現在の花巻市には店蔵などの町屋はあまり見かけませんが、敷地背後にある土蔵は比較的残っており、再利用することで町づくりに一役買っています。
又、花巻城の三の丸には圓城寺門(花巻市指定文化財)や伊藤家、松川家など武家屋敷が残り落ち着いた城下町の町並みを呈しています。
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