達谷窟毘沙門堂(平泉町)概要: 達谷窟毘沙門堂は岩手県西磐井郡平泉町平泉字北沢に位置している御堂です。達谷窟毘沙門堂の創建は平安時代初期の延暦20年(801)、坂上田村麻呂(征夷大将軍・鎮守府将軍)がアテルイなど蝦夷討伐に勝利した際、毘沙門天への戦勝祈願によるものと感じ、この地に京都の清水寺を模した桁行9間、張間9間の毘沙門堂を建立し108体の毘沙門天像を安置したと伝えられています(境内のある「田谷窟」は蝦夷(悪路王・赤頭・高丸)が要塞として利用していた場所とされます)。
延暦21年(802)には奥眞所上人により達谷窟毘沙門堂の別当寺院となる達谷西光寺が創建され、祭祀が滞りなく行われるように広大な寺領が寄進されました。
達谷窟毘沙門堂の内部には慈覚大師円仁が田村麻呂を模して彫刻したと伝わる仏像が安置されており、年代が50年程前後しますが、円仁が当寺と関係があった可能性があります。
その後も、平安時代後期に発生した前九年や後三年合戦で源頼義、義家親子が戦勝祈願が行われ寺領を寄進、奥州藤原氏三代は堂宇を再建しています。文治5年(1189)の奥州合戦で奥州藤原氏を制圧すると源頼朝が凱旋帰国する際、「田谷窟」に参拝した事が鎌倉時代の正式な歴史書である「吾妻鏡」に記載されています。
中世に入ると周辺を支配した葛西氏が延徳2年(1490)の火災直後に毘沙門堂を再建するなど手厚く庇護しますが、天正18年(1590)の小田原の役に豊臣軍に参陣しなかった事から改易となり庇護者を失います。江戸時代に入るとでは仙台藩(藩庁:仙台城)が庇護し毘沙門堂を再建、慶長20年(1615)には初代藩主伊達政宗が厨子を寄進しています。
達谷窟毘沙門堂の建物は清水寺を模したと言われ舞台のような構成になっていて岸壁側の外壁は無く、壁には岩肌が直接見られます。現在の建物は昭和21年(1946)の火災によって焼失後、昭和36年(1961)に再建されたものですが、当時の雰囲気は十分に感じ取る事は出来ます。又、境内から西側には約150m、高さ30〜35mの岸壁が続き、そこには巨大な磨崖仏(北限の磨崖仏・岩面大仏:大日如来又は阿弥陀如来とされる)が刻まれ信仰の篤さが感じられます。
姫待不動堂は寛政元年(1789)に造営されたもので、木造平屋建、宝形造、茅葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り、本尊の不動明王像は貴重な事から岩手県指定有形文化財に指定されています。達谷窟毘沙門堂境内一帯は歴史上で大変貴重な事から平成17年(2005)に国指定史跡に指定されています。
達谷西光寺は東北三十六不動霊場第23番札所(札所本尊:姫待不動・御詠歌:大慈心 姫待滝の 不動尊 漏るるかたなき 誓いぞ 嬉し)。山号:真鏡山。宗派:天台宗。本尊:毘沙門天。
奉行坊杉概要: 案内板によると「達谷窟毘沙門堂の祭事を司る僧を別当奉行という。奉行の指図により各坊の僧がこの杉の元に参集したので奉行坊杉と呼ばれる。「安永風土記」にも大杉と記される。昭和21年、隣家から出火し、西風に煽られた炎は毘沙門堂と辨天堂に燃え移ったが、この杉が西側の枝葉を失いながら炎を防ぎ、不動堂、鐘楼等の諸堂が類焼を免れたのは、古来暫々雷が落ち神宿木である大杉に火之神不動尊が降りた為であると云われてた。」とあります。
達谷窟毘沙門堂:上空画像
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