盛岡城概要: 盛岡城は鶴ヶ城(福島県会津若松市)、小峰城(福島県白河市)と並び東北三名城と呼ばれています。特に土塁が多用された東北の城の中では異例ともいえる花崗岩を積み上げた高い石垣を誇り、近世城郭の威容を誇っています。
盛岡城の経緯−盛岡城の城主南部氏は甲斐源氏の後裔として当初は甲斐国南部(現在の山梨県南部町)を領していましたが、文治5年(1189)の奥州合戦の際に初代鎌倉幕府将軍である源頼朝に従い大功を挙げた事で陸奥国北部が与えられ、聖寿寺館(青森県南部町)を本拠としました。その後、聖寿寺館が家臣の謀反で放火され焼失した事を受けて本城を三戸城(青森県三戸町)に移し、三戸南部家と呼ばれるようになっています。
天正18年(1590)の小田原の役に豊臣側に参陣し、その後の「奥州仕置」により南部家惣領として認められましたが、一族である九戸南部家が反乱を起し「九戸の乱」に発展します。三戸南部家は単独で鎮圧する事が出来ず、豊臣家による奥州仕置き軍を要請しようやく九戸南部家を討伐し、本拠を三戸城から九戸城(岩手県二戸市)に移します。
しかし、本領だった津軽三郡は大浦氏(後の津軽氏、弘前藩主)の領土となり、その分南三郡が安堵された為、、領土が大きく南側へ移り、九戸城では北側へ偏り過ぎた為、蒲生氏郷や浅野長政の助言もあり居城を盛岡城す事を計画しました。
慶長3年(1598)から盛岡城の築城を開始し慶長14年(1609)に第一期工事が完成し、実際に全てが竣工したのが寛永10年(1633)とされます。盛岡城が築城している間の慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは東軍として行動したものの、領内で奥州仕置きで改易になった和賀氏や稗貫氏の一族が旧領復帰を目指して一揆(岩崎一揆・和賀一揆)を起こし、南部軍はその一揆の鎮圧に奔走した為、大きな戦果は上がらず加増無し、本領が安堵され10万石で盛岡藩を立藩しています。盛岡城は盛岡藩の主要施設として藩庁と藩主居館が設けられました。
盛岡城の縄張り−盛岡城は本丸を中心に北側に二の丸、三の丸と配し、東側に淡路丸、南側に腰曲輪、西側に榊山曲輪で取り囲み、北上川と中津川を天然の要害としました。主な施設としては本丸の天守台に三階櫓が築かれ、百足橋や三重の廊下橋などがあったとされ、規模はさほど大きくありませんが様々な工夫があったと思われます。
盛岡城の現状−明治維新後、盛岡城は廃城となり様々な建物が取り壊しあるいは移築され、城内の施設はなくなりましたが、元々あった土蔵が再び城内に移築されています。現在の盛岡城は本丸、2の丸を中心に石垣や水堀の一部など保存状態も良く昭和12年(1937)に国指定史跡に指定されています。又、盛岡城は日本100名城に選定されています。
盛岡城跡公園(岩手公園):上空画像
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