志波城(盛岡市)概要: 志波城は岩手県盛岡市中太田・下太田に位置する古代の城郭です。志波城は延暦22年(803)北上川と雫石川合流付近に造営された古代城柵です。前年に坂上田村麻呂(征夷大将軍、鎮守府将軍)が蝦夷の首長アテルイを滅ぼしたことで朝廷の支配地域が一気に北上、延暦21年(802)には胆沢城(奥州市水沢区)が築かれました。
志波城は雫石地方以北の蝦夷への戦略的拠点、出羽国秋田城(秋田県秋田市)への交通の確保という役割からこの地が選ばれ築城されたと思われます。
当初は鎮守府が志波城内に設置されたと思われ、平面規模としては多賀城(宮城県多賀城市)に匹敵し、志波城の構造は928m四方を大溝(堀)と土塁によって囲まれ、さらに内側(840m)には重厚な築地塀が配置され2重によって区画されている強固なものでした。内部には政庁を設け、その外側には築地塀で囲むなど国府多賀城と同等な施設がこの地に造営されました。
蝦夷の首長アテルイが討ち取られた後も陸奥や出羽北部の蝦夷達は抵抗を続け、大同5年(810)には大蔵卿兼陸奥出羽按察使として文室綿麻呂が志波城に赴任し、周辺の蝦夷を掃討した事で従三位に叙せられ、勲五等の叙勲を受けています。さらに、文室綿麻呂は爾薩体(現在の岩手県二戸郡から青森県南部にかけての一帯)と弊伊(現在の岩手県上閉伊郡・下閉伊郡)の蝦夷も掃討し征夷大将軍に就任しています。
しかし、弘仁2年(811)に、雫石川氾濫で志波城は壊滅的な被害を受け、南方10キロの徳丹城(岩手県紫波郡矢巾町西徳田)が新たに造営され志波城の機能が移され廃城となりました。現在の志波城は発掘調査が進み、外郭南門や築地塀などが順じ復元され「志波城古代公園」として整備され、名称「志波城跡」として昭和59年(1984)9月14日に国指定史跡に指定指定されています。
志波城:上空画像
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