盛岡市(歴史)概要: 盛岡市の古代には蝦夷が独自の文化圏を有していたと思われ、上田蝦夷森古墳群からは「衝角付冑」や「蕨手刀」などが見つかり大和朝廷とは異なる生活形態がなされていました。岩手県南部で繰り広げられたアルテイやモレなどの俘囚(蝦夷)と大和朝廷側の坂上田村麻呂の戦いが終わると、旧蝦夷勢力を一掃するため延暦22年(803)に盛岡市の南西部に志波城を造営します。志波城の規模は当時の国府だった多賀城(宮城県多賀城市)や鎮守府の胆沢城よりも大きく、城柵を廻すなどの防衛施設も充実していた為、対蝦夷の最重要拠点と考えられていたようです。しかし、10年後には河川の氾濫、あるいは蝦夷の抵抗などで戦線が維持できなくなり盛岡市より南方にある徳丹城へ機能を移しました。その後、俘囚の長である安倍氏の勢力が強大になり、盛岡市西部に厨川柵・嫗戸柵の両柵を設け一大拠点を築き周囲を支配します。朝廷側は源頼義を鎮守府将軍として安倍氏を追討を画策し前九年合戦が始まります。当初は安倍氏が優位に推移していましたが出羽(秋田県)の俘囚の長清原氏が朝廷側に付くと、戦局は一転し安倍氏の敗戦が目立ち始めます。盛岡市周辺が最終決戦の場となり安倍貞任は厨川で討死にしたと伝わっています。次に支配権を握ったのが清原氏でしたが、内紛が起こり後三年合戦へと発展し、結果的に勝利を収めた清原清衡は藤原氏の祖となり奥州を支配します。その後、鎌倉幕府は源義経を自刃に追い込み「奥州合戦」では源頼義が安倍氏を討った故事にならい盛岡市の厨川まで進軍し、藤原氏を滅亡させます。盛岡市を含めた岩手郡周辺は戦功があった工藤氏が厨川館で支配する事となり、戦国時代後期まで続きますが、南部氏の南下を支えきれず、南部氏の家臣団に組み込まれていきます。当初、南部氏は三戸城や九戸城を本拠としていましたが、小田原の陣に参陣や「奥州仕置」、「九戸の乱」などに随行した為、10万石が安堵され、領土が大きく南側へ移ります。九戸城では北側へ偏り過ぎた為、蒲生氏郷や浅野長政の助言もあり本城を盛岡へ移す事になります。盛岡開府は現在の盛岡市に繋がり、現在でもその当時の城下町の風情が色濃く残り小京都と称されています。
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