平泉町(歴史)概要: 平泉町は平安時代末期、奥州藤原三代の本拠地となった場所で、当時の人工が10万人以上と言われ日本の中でも有数な都市でした。藤原氏以前にも俘囚長であるアテルイやモレは平泉町周辺に拠点を持ち、坂上田村麻呂を中心とする朝廷軍と数度に渡り戦い、胆沢城などの施設も置かれました。平泉町は北上川の舟運を中心に古代の街道が四方に走り、大谷金山、鹿折金山、鷲之巣金山、玉山金山などの有力な金山を結んだ事で奥州での経済、文化、軍事、政治の中心となり、柳之御所を中心に中尊寺、毛越寺、無量光院、観自在王院など次々と社寺仏閣が建てられ正に藤原黄金文化を花開かせました。初代藤原清衡の母方である清原氏は蝦夷の血筋だった事から、中央の文化を取り入れながら、平泉独自の文化を育み、領土経営も比較的安定していましたが、三代秀衡の頃になると、義経を匿った事で鎌倉幕府とに軋轢が生まれます。当時は、朝廷と幕府の勢力が拮抗していた事もあり、藤原氏は朝廷に莫大な献上金や馬などを送り鎮守府将軍や陸奥守といった役職を手に入れ政治的基盤の強化しましたが、四代泰衡になると幕府側の軋轢に耐えかね、義経を高館で自刃に追い込みます。源頼朝はこの期の逃さず奥州追討を発し奥州藤原氏は滅亡しました。その後、幕府の御家人である葛西氏が入りますが、藤原氏ほどの権力も無く、鉱山資源が次第に枯渇してきた事などから、周囲の中心的立場から衰退し、社寺仏閣も火災や廃寺など多く当時の繁栄を伝える建物群が少なくなりました。江戸時代に入った平泉町は奥州街道の宿場も置かれる事もなく都市的な発展は見られませんでしたが、仙台藩主である伊達家は中尊寺の復興や史跡の保存にも力を入れ、松尾芭蕉の「奥の細道」行脚など多くの文人墨客などが平泉を訪れ当時に想いを馳せていました。現在の平泉町にはこれの史跡がよく整備され、中尊寺金色堂などに藤原黄金文化の片鱗を見る事が出来ます。
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