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奥州市水沢区(歴史)概要: 奥州市水沢区周辺は旧石器時代頃から人々の生活の痕跡が見られ、縄文時代前期後葉の環状集落である「大清水上遺跡」では、中央の広場を取り囲むように大型竪穴住居62棟が確認されています。
大型竪穴住居は中央広場に長軸を向け、直径約110mの範囲で配され、さらにその外側には小型竪穴建物や貯蔵穴として利用されたと推定される土坑が複数見られ、当時の集落形態が判る遺構として貴重な事から国指定史跡に指定されています。
角塚古墳は5世紀末から6世紀初期頃に築造されたと推定される前方後円墳で、墳丘長43〜45m、後円部、直径約28m、高さ約4m、前方部、北側幅約10m、南側幅約15m、高さ約1.5m。
日本最北端の前方後円墳として貴重な事から国指定史跡に指定され、角塚古墳出土埴輪は考古資料としての価値が高く貴重な事から岩手県指定文化財に指定されています。
当地は蝦夷が多数住んでいた地域で蝦夷の長であるアテルイの拠点の1つにもなっていていました。アテルイの抵抗は凄まじく、何度も朝廷軍を退けていましたが、延暦21年(802)ついに坂上田村麻呂に降伏し、騙し討ちとなっています。
坂上田村麻呂は水沢の北側にある北上川と胆沢川に囲まれた地域に胆沢城を築き、対蝦夷用の拠点として以後150年もの間この地域の中心としました。
延暦23年(804)に胆沢郡が建郡、大同3年(808)頃には鎮守府が多賀城から胆沢城に遷されたと推定され、陸奥国支配の中心的な役割を持ちました。
奥州市水沢区は奥州街道だけでなく秋田県の東成瀬村に繋がる手倉街道、太平洋側の大船渡市に繋がる盛街道が交差する交通の要衝として重要視され、前九年合戦では水沢城付近に源頼義が陣を張ったとの伝承も残り軍事的にも拠点となりました。
後三年合戦後は出羽國の豪族だった清原氏や俘囚長だった安倍氏と関係が深いとされる奥州藤原氏の支配下に入っています。
接待館遺跡は安倍氏の支配下では政庁、奥州藤原氏の支配下では藤原基衡の妻の居館、又は藤原基成の屋敷、衣川館址とも推定される遺跡で、周囲を堀と土塁で囲い、掘立柱建物跡42棟をはじめ、土坑跡、溝跡、堀跡、土塁跡、竪穴建物跡、大量のかわらけ等が出土し、大変貴重な事から「柳之御所・平泉遺跡群」として国指定史跡に追加指定されています。
文治5年(1189)に発生した奥州合戦で、源頼朝が率いる鎌倉軍の侵攻を受け、奥州藤原氏は没落しています。
胆沢郡や磐井郡、牡鹿郡等は奥州合戦で大功があった葛西清重に与えられ、清重は奥州総奉行や検非違使にも就任、水沢には重臣であったとされる佐々木氏や柏山氏が治めています。
柏山氏は半独立した存在だったようですが、天正18年(1590)に発生した豊臣秀吉の小田原の陣に呼応せず葛西氏同様に奥州仕置により改易され、子息は南部氏に仕えています。
胆沢郡や江刺郡等は豊臣家に従った木村吉清に与えら、水沢城には木村家の家臣である松田源太郎左衛門が配されています。
しかし、木村家の治世は不手際が多かった事から、旧領主の遺臣達が中心となり、葛西大崎一揆が勃発しています。
一揆勢が豊臣家の奥州仕置き軍によって鎮圧されると、木村家は改易となり、代わって一揆を先導したとの嫌疑をかけられた伊達政宗領となり、水沢城には白石宗実が1万5千石で配されています。
近世に入ると奥州市水沢を含む胆沢郡は引き続き伊達家が藩主を務めた仙台藩領となり、伊達家の一門である留守氏が1万6千石で領するようになります。
水沢城は4つの郭を2重の掘りで囲む城郭でしたが一国一城令により水沢要害と名称を改め、留守氏の本城として明治維新まで続きます。
町割りは水沢要害を中心に家臣を配し、奥州街道沿いには商家町として商人を集め経済的にも確立し、その東側に寺院を集め小さいながらも寺町を形成し、いざという時の防衛の役割をもたせています。
乙女川を筆頭に城下町内には小さな川が何本か流れ込み、町割りや掘りに見立てるなど様々な工夫が見られ、現在の奥州市水沢区中心部の原型が形付けられました。
戊辰戦争の際、仙台藩は奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍と対立した為、敗北後は大幅に石高が減じられ胆沢郡と江刺郡は新政府の直轄地となっています。
奥州市水沢区からは多くの偉人が輩出されており、特に高野長英、斎藤實、後藤新平は水沢三偉人と呼ばれ、それぞれ資料館や生家など史跡も数多く残されていています。
現在でも市内の旧武家町には多くの武家屋敷の遺構が残され、周辺の歩道等も整備されています。
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