奥州市水沢区(歴史)概要: 奥州市水沢区周辺は蝦夷が多数住んでいた地域で俘囚の長であるアテルイの拠点の1つにもなっていていました。アテルイの抵抗は凄まじく、何度も朝廷軍を退けていましたが、ついに坂上田村麻呂によって討ち取られます。坂上田村麻呂は水沢の北側にある北上川と胆沢川に囲まれた地域に胆沢城を築き、対蝦夷用の拠点として以後150年も間この地域の中心としました。奥州市水沢区は奥州街道だけでなく秋田県の東成瀬村に繋がる手倉街道、太平洋側の大船渡市に繋がる盛街道が交差する交通の要所として重要視され、前九年合戦では水沢城付近に源頼義が陣を張ったとの伝承も残り軍事的にも拠点となりました。中世には葛西氏が奥州総奉行となり水沢には重臣であったとされる佐々木氏や柏山氏が治める事になります。柏山氏は半独立した存在だったようですが、豊臣秀吉の小田原の陣に呼応せず葛西氏同様に奥州仕置により改易され、子息が南部氏に仕える事になります。近世に入ると奥州市水沢を含む胆沢郡は伊達領となり留守氏が1万6千石で領するようになります。一国一城令により水沢城は4つの郭を2重の掘りで囲む城郭でしたが水沢要害と名称をかえ、留守氏の本城として明治維新まで続きます。町割りは水沢要害を中心に家臣を配し、奥州街道沿いには商家町として商人を集め経済的にも確立し、その外側(東側)に寺院を集め小さいながらも寺町を形成しいざという時の防衛の役割をもたせています。乙女川を筆頭に城下町内には小さな川が何本か流れ込み、町割りや掘りに見立てるなど様々な工夫が見られ、現在の奥州市水沢区の原型が形付けられました。現在でも旧武家町には多くの武家屋敷が残り周辺の歩道の整備などに力を入れています。又、奥州市水沢区からは多くの偉人が輩出されており、特に高野長英、斎藤實、後藤新平は水沢三偉人としてそれぞれ資料館や生家など史跡も多く残されていて町づくりにも一役買ってます。
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