駒形神社(奥州市水沢区)概要: 駒形神社は岩手県奥州市水沢区中上野町に鎮座している神社です。 駒形神社が何時頃から祀られているのかは判りませんが、伝承によると景行天皇40年(110)に日本武尊(景行天皇の皇子)が東夷東征で当地まで遠征した際に駒形大神(天照大御神・天常立尊・国狭立尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火尊)を勧請したとも、延暦21年(802)坂上田村麻呂(征夷大将軍、鎮守府将軍)が当地まで遠征した際、討死した愛馬を弔い、その後巡錫で当地を訪れた慈覚大師円仁がその御霊を駒形神として駒ヶ岳山頂に祀ったとも、雄略天皇21年(477)に籠神社(京都府宮津市)から宇賀御魂大神を駒ヶ岳山頂に勧請し、里宮に大宜津比売神と事代主神の分霊を勧請したとも云われています。
さらに、別説としては上野国の豪族である上毛野氏の一族が当地に進出した際に、上毛野氏の氏神である赤城山の山頂に鎮座する赤城神社を模して創建したという説もあります。駒ヶ岳山は太古より霊峰として信仰の対象になっており、俘囚の人々が支配していた時からも何らかな想いがあったのかも知れません。
駒形神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社として記載され、当時から格式の高い神社として認識されていました。
平安時代後期の奥州動乱(前九年合戦)の際には源頼義、源義家父子が参拝に訪れ、後三年合戦後に奥州6郡を掌握し俘囚の血も引く平泉を本拠地とした奥州藤原氏も崇敬が厚く、3代当主藤原秀衡が神像を寄進した事が記録に残されています。
江戸時代に入ると駒ヶ岳山頂の奥宮から里宮にかけては盛岡藩(藩庁:盛岡城)と仙台藩の藩境と重なった為、奥宮は20年毎に両藩が交代で式年造替を行い、里宮は両藩それぞれの領地に1社づつ境内を構えました。
明治時代に入ると神仏分離令に従い社号を「駒形神社」に改め、国幣小社に列格、しかし、参拝に不便だった為、水沢市内に鎮座していた塩釜神社の本殿を遥拝所となり、明治36年(1903)に奥宮から正式に分霊が勧請され塩釜神社の社殿、境内は駒形神社本社となり、塩釜神社は境内に鎮座し別宮だった春日神社に遷座し境内社の1つとなりました。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、明治4年(1871)に山頂の奥社が国幣小社に列する事になると、参拝が困難である事から元々塩釜神社が鎮座していた水沢中心部(現在地)に一端遥拝所が設けられ、社殿が造営された後に遷座し現在に至っています。
塩釜神社は宮城県塩釜市に鎮座する塩釜神社の分霊を勧請した神社で、中世、塩釜神社の神官で国人領主だった留守氏が戦国時代以降伊達家に従い、江戸時代には水沢要害の領主として当地に配された際、当地に塩釜神社を創建しました。
塩釜神社は歴代留守氏が信仰すると共に民衆からの信仰も厚くかったとされます。塩釜神社は本殿は留守氏により造営された建物で三間社流造。
駒形神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、正面千鳥破風、銅板葺き、平入、桁行6間、正面1間唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り。本殿は三間社流造、銅板葺き、外壁は真壁造り板張り。幣殿は木造平屋建て、両下造、銅板葺き、奥行き3間、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。神門は切妻、銅板葺き、三間一戸、四脚門。
駒形神社境内周辺は桜の名所でもあり名所「駒形神社及び水沢公園のヒガン系桜群」として岩手県指定天然記念物に指定されています。祭神:天照大御神、天常立尊、国狭立尊、吾勝尊、置瀬尊、彦火尊。
駒形神社:上空画像
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