一関市(歴史)概要: 当地は律令制下では陸奥国磐井郡七郷に属していたとされ、その中の磐井郷・磐本郷・駅家郷の三郷は現在の一関市域に当たるとの説があります。
一関市の名前の由来は諸説あり、一説には平安後期まで俘囚の長として奥州6郡を支配した安倍氏が一の関、二の関、三の関と砦を築き、当地はその一の関に当たるとの説や、奥州藤原氏が本拠地である平泉の南方の防衛施設である関所を設置した所が当地に当たるとの説、江戸時代に一関藩主田村氏が関所を設置した説等があります。
現在の釣山公園は古来、坂上田村麻呂が東夷東征の際陣を張った所だったと云われ、その後、安倍貞任の弟である家任が砦を築き、前九年合戦の際には源頼義・義家父子が陣を構えていたとも云われています。
一関市は四方に街道が延びている事からも古くから交通の要衝で軍事的にも重要視されていたと思われます。
後三年合戦が平定されると、奥州藤原氏の支配下に入り、本拠地となった平泉と接していた事から重きを成しましたが、文治5年(1189)に発生した奥州合戦で藤原家は源頼朝率いる鎌倉軍に敗北すると幕府の支配下に入っています。
同年、奥州合戦で功績を挙げた御家人の葛西清重が当地を与えらえ、源頼朝からは平泉郡内検非違使を命じられています。
「吾妻鏡」によると文治5年9月22日条に「陸奥国御家人の事、葛西三郎清重これを奉行すべし。参仕の輩は清重に属して子細を啓すべし」と記されており清重は「奥州総奉行」にも任命された事が窺えます。
葛西氏は一関市周辺を含む胆沢郡、磐井郡、気仙郡、江刺郡の4郡の他、興田保、黄海保を支配しました。
天正年間(1537〜1592年)に葛西氏が本拠地を石巻から登米に遷すと、一関城には家臣である小野寺道照が入りました。
しかし、天正18年(1590)に発生した小田原の役で葛西氏は豊臣方の参陣を怠った事から、豊臣秀吉による奥州仕置で改易された為、小野寺氏も当地を追われたと思われます。
その後は豊臣家に従った木村氏の支配下に入ったものの、木村氏が悪政を行った事で改易となった葛西氏、大崎氏の遺臣が中心となり葛西大崎一揆が発生、鎮圧後は伊達領となり、当地には伊達政宗の叔父に当たる留守政景が配されています。
寛文年間(1661〜1672年)には伊達政宗の十男である伊達宗勝が仙台藩から独立し、磐井郡・栗原郡合計三万石で一関藩を立藩しています。
しかし、本家である仙台藩主の跡目相続問題から世にいう「伊達騒動」が勃発し宗勝は首謀者の1人として処罰され、領地没収の上土佐藩に身柄預かりとなっています。
その後、同じく伊達一族である田村建顕が岩沼(現宮城県岩沼市)から三万石で入封し、以後、田村氏が明治維新まで一関藩主を歴任しています。
田村氏は仙台藩主伊達家から見ると一門扱いでしたが、幕府からは無城格大名として認められ、現在の裁判所付近に藩庁となる一関陣屋を構え現在の一関市に繋がる町づくりを行っています。
陣屋周囲を内堀で固め北方に家臣団、釣山周囲に祥雲寺や願成寺などの寺院を固め寺町を形成し南方の防衛ラインを形成しています。
奥州街道沿いである地主町、大町、百人町は商人町とし外堀の外側に配置し、外堀の内側に住んだ家臣を「内家中」外側を「外家中」と呼び「内家中」には家老や上級武士が配されました。
磐井川や吸川は城下町を囲むように流れており総掘と見立てていたと思われます。
現在でも一関市に残る唯一の武家屋敷旧沼田家住宅(一関市指定文化財))で当時の様子を窺う事が出来ます。
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