紫波町(歴史)概要: 紫波町は岩手県でも比較的古くから開けた地域で、坂上田村麻呂の東夷東征では俘囚群と抗争が繰り広げられました。志賀理和気神社や白山神社などは田村麻呂が勧請されたと伝えられ、正音寺や高清水観音堂には平安時代末期の仏像が安置されています。前九年合戦でも戦場となり源義家が戦勝祈願した蜂神社や御手植の杉(切り株)などの謂れのある史跡も残っています。文治5年(1189)には源義経を保護した事で、鎌倉幕府と奥州藤原氏と対立が対立しました。その時は頼朝自ら軍を率いて「陣ヶ岡」に陣を張り、そこに駆けつけた武士は28万4人とも言われます。中世の紫波町一帯は斯波氏が治め高水寺城の築城し拠点としました。斯波氏の支配は天正16年(1586)に南部氏に亡ばされるまで続き、その後は南部氏が領するようになりました。南部氏も紫波町中心部である日詰を重要視して、高水寺城を郡山城と改名して寛文7年(1667)廃城となるまで存続しました。廃城になった後も代官所や藩の御蔵が置かれ紫波町は奥州街道の宿場町や北上川の舟運の川港として商業が中心の町として発展しました。紫波町に残る「平井邸」は造り酒屋で舟運業で栄えた豪商の屋敷で、その豪華な造りは当時の様子を伝えるものとして貴重な存在と言えます。
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