胆沢郡金ケ崎町(歴史)概要: 金ケ崎町の平安時代は蝦夷と中央政権の勢力が入り混じる地域の1つで、蝦夷の俘囚の長であった安倍氏の軍事的拠点の鳥海の柵が築かれました。鳥海の柵は当時、難攻不落と呼ばれており「前九年合戦」では両軍の主力がぶつかり合う激戦地で、「陸奥話記」によると安倍頼時は鳥海の柵で流れ矢にあたり没したとされています。近世に入ると伊達領に組み入れられ、南部藩と接する最北端に位置することから、北方警護と軍事的拠点とする為、要害屋敷(金ケ崎城)が築かれます。伊達領は領地が広大だった事から領内の重要拠点に21箇所の要害を設けましたが金ケ崎町もその1つとなりました。北上川と宿内川を掘りに見立て、そこに流れ込む支流を内堀化した城割りとなっています。金ケ崎城は平城ですがある意味天然の要害とも言え、古代では坂之上田村麻呂や白糸姫、源義家などの伝説が残っています。要害屋敷(金ケ崎城)には伊達家家臣の大町氏が3000石で入り、城の周りに家臣団を配置、奥州街道沿いに商人町を形成、さらに外側の南北両端に足軽町を造り町の出入りを固めるなどの城下町の町割りを行いました。現在の金ケ崎町ではこれらの町割りだけでなく敷地割りもほぼ踏襲している珍しいケースで、要害屋敷(金ケ崎城)を中心に武家町全体に当たる面積約34.8ヘクタールが「重要伝統的建造物群保存地区(金ケ崎町城内諏訪小路)」に指定されています。金ケ崎町には11棟の武家屋敷(旧大沼家住宅は金ケ崎町指定有形文化財)が存在しており、その内8棟は近世の建物で生垣と屋敷林による独特な町並みとなっています。
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