金ケ崎城(要害)

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概要・歴史・観光・見所
金ケ崎城(要害)概要: 金ケ崎城は平安時代初期の延暦20年(801)金ケ崎城(要害)に坂上田村麻呂(征夷大将軍、鎮守府将軍)が築いた館跡という伝説が残り、当初から要害堅固の城として重要視されていた地域だったと思われます。平安時代後期に発生した前九年合戦の際には源頼義が陣を張ったとされ、安倍頼時の妻である白糸姫が住んでいた場所という伝説も残っています。白糸姫には幾つかの伝説があり、1つは安倍貞任に捕まった源義家を助けてやったことで、安倍氏敗退の原因を作った事で義家から金ヶ崎城(白糸城)を与えられたというもので、もう1つは、鳥海の柵に捕まった義家と恋仲となりを安倍氏に伝わる秘仏の巻物と一緒に逃がした事がばれ、生き埋めとなったというものです。中世から戦国時代にかけては川崎城とも呼ばれ、南部氏や江刺氏、和賀氏などが金ケ崎城を巡り攻防を繰り返しおり、この地が戦略的に重要視されていたことがわかります。特に南部氏の一族である九戸氏が執拗に金ヶ崎城に侵攻し天正10年(1582)には葛西氏を撃破し支配下に置いています。天正18年(1590)の小田原の陣に参陣した南部氏だけが大名家として認められ、分家筋の九戸氏は南部氏に従属する裁定が下った為、それに反対した九戸氏は天正19年(1591)に九戸の乱を発生させますが、豊臣家による奥州仕置軍の謀略により滅亡しています。代わって、豊臣家の家臣である木村吉清が領主となったものの、悪政が続いた為、奥州仕置きで改易となった葛西氏や大崎氏、農民達が蜂起し「葛西大崎一揆」と呼ばれる大規模な一揆が発生、蒲生氏郷や伊達政宗に一揆は鎮圧されましたが、木村吉清は改易となり伊達領となっています。慶長7年(1602)に伊達家の家臣桑折景頼が岩谷堂城から金ケ崎城に入封、慶長19年(1614)に景頼が伊達政宗の長子である伊達秀宗に従って当地を離れると、元和元年(1615)に一関城から留守宗利が入封、寛永6年(1629)に宗利が水沢城に移封になると、寛永21年(1644)に大町定頼が2千石(後に3千石)で入封し、以後、明治維新まで大町氏が城主を歴任しています。江戸時代に入ると伊達領内(仙台藩)の最北端で盛岡藩(藩庁:盛岡城)に接していた為重要視され、慶長20年(1615)に発令された一国一城令後も事実上城郭が維持され仙台藩領内21ある要害の1つとして金ケ崎要害と呼ばれるようになります。

金ケ崎要害(金ケ崎城)は本丸を中心に二の丸、観音館、東館、金ケ崎城(要害)蔵館、大庭と郭を配し、それぞれを北上川と宿内川に流れ落ちる支流をたくみに内堀化しています。現在でも金掘沢は原型を留めており当時を伝えていますが、政庁が置かれた二の丸は宅地と農地になり、本丸や観音館などは河川の浸食や道路整備など原型を留めていません。町割りは要害を中心に家臣団が住み、奥州街道沿いには商人町、南北の際には足軽屋敷を配して城下町の防衛にあったています。これらの町並みは、江戸時代の地割や敷地割りなどの原型を現在でも色濃くのこしており、「金ケ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

金ケ崎城(要害):写真

金ヶ崎城
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