奥州市江刺区: 岩谷堂城(要害)

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概要・歴史・観光・見所
岩谷堂城(要害)概要: 岩谷堂城は平安時代末期、後に平泉を本拠とする藤原清衡とその父である経清の居館とされる豊田館の一部、又は砦跡と言われ周囲から平安時代の住居跡が発見されています。中世になると江刺一帯を支配した江刺氏の居城となり、山城として改めて築城されます。戦国時代末期の天正18年(1590)に発生した小田原の役で豊臣軍に参陣しなかった事で、江刺氏は本家筋である葛西氏と共に豊臣秀吉の奥州仕置きにより改易されます。代わって領主となった木村吉清は家臣である溝口外記を岩谷堂城に配しますが、天正18年(1591)、木村氏の悪政により苦しんだ農民達と奥州仕置きの裁定に不満を持った葛西氏、大崎氏の遺臣が葛西大崎一揆を発生させ、伊達政宗や蒲生氏郷などに鎮圧されたものの溝口外記は討死、木村吉清は改易となります。

代わって、伊達政宗が米沢城(山形県米沢市)から岩出山城(宮城県大崎市岩出山)に移封となり、当地は伊達領に組み込まれ、岩谷堂城には家臣である桑折政長が配されます。その後、母帯越中、猪苗代長門、古田重直、増田宗繁と城主を歴任し、元和8年(1622)には仙台藩2代藩主伊達忠宗の御部屋となり、城代として家臣である藤田宗和が配されています。寛永20年(1643)に古内義重が入り、承応元年(1652)に義実が死去すると古内義如が跡を継ぎ、万治2年(1659)に上口内城に移封となると代わって岩城宗規(伊達家一門:仙台藩2代藩主伊達忠宗の7男である伊達宗規が名門岩城家の婿養子となり、当地に配された後に岩谷堂伊達氏と呼ばれた。)が5千石で入封し以後、明治維新まで9代にわたり岩谷堂伊達氏が城主を歴任しています。

慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると、仙台藩は本城である仙台城(宮城県仙台市)と、支城となる白石城(宮城県白石市)以外は重要性に合わせ、城郭としての機能を残しつつ、名称を「要害」、「所」、「在所」に変更、岩谷堂城は仙台藩の北方の守りとして重要視され、さらに交通の要所で経済の中心であった為「要害」に指定され伊達家一門(岩谷堂伊達家)が配されました。

現在二清院がある平場は「本丸跡」で、一段低い所の展望台がある平場が「中の郭」と呼ばれていました。「中の郭」は現在でも空掘や土塁の跡を見る事が出来ます。岩谷高校の校庭が二の丸跡とで、岩屋氏の重臣が居を構えとしました。

岩谷堂城(要害):写真

岩谷堂城
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