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奥州市江刺区(歴史)概要: 江刺の地名は胆沢郡の前に位置していた事から胆(イ)前(サキ)が転じたとも、当地に流れる川が頭を前に出している人に似ていた事の意味であるアイヌ語「エサウシ」が転じたとも、鷹の餌となる小鳥を捕える「餌差(エサシ)」が当地に居た事が転じたとも云われています。
律令制下では胆沢郡に属していたようで、「和名抄」東急本国郡部の訓注に「衣佐志」と記されています。
延暦21年(802)から弘仁2年(811)の間に江刺郡が建郡したと推定されており、建郡後は江刺郡に属しています。
江刺郡は大井郷、信濃郷、甲斐郷、橋井郷の4郡で構成され、愛宕落合U遺跡から大量の墨書土器と木簡が出土している事から江刺郡衙の跡地と推定されています。
「続日本後紀」承和八年(841)三月二日条には「江刺郡擬大領外従八位下勲八等上毛野胆沢公毛人」が外従五位下を借授している事が記されている事から、当地は上毛野一族が支配していた事が窺えます。
江刺は交通の要所とされ、盛岡、水沢、北上と結ぶ各街道が延び、それらが太平洋側に抜ける盛街道と合流していました。
その為、江刺は古くから周辺一帯の軍事、行政、経済の中心地とされ、長元年間(1028〜1037年)には藤原氏3代の祖となった藤原清衡の父親である経清が豊田城を築き、清衡が奥州の押領使となって平泉に拠点を移すまでの居館として利用された事から、豊田城は清衡の生誕地とも云われています。
文治5年(1180)に発生した奥州合戦で、源頼朝が率いる鎌倉軍が平泉に侵攻し奥州藤原氏が滅亡すると、江刺郡は大功があった葛西氏の知行地になったと推定されています。
当地には葛西氏の一族である江刺氏が配され、岩谷堂城を拠点として江刺郡一帯を長く支配しました。
江刺氏の祖は鎌倉幕府の有力御家人で「奥州総奉行」と平泉特別行政区の「検非違使職」を担った葛西清重の次男である朝清の子供、清任とされます。
清任は朝清から江刺郡の采配を任せられ当地に赴任すると地名に因み「江刺」姓を掲げたと思われます。
南北朝時代には独立を画策し、宗家である葛西氏が南朝方に属したものの、江刺氏は北朝方に与し慶安元年(1361)には合戦に及んでいます。
明応4年(1495)の合戦では当時の領主である江刺隆見が敗北した為、岩谷堂城には葛西政信の孫に当たる葛西三河守重胤が配されています。
重胤は長男である輝重に家督を継がせると、次男の如清には人首村、三男の帯刀には口内村を与え領内支配を確立しています。
しかし、天正13年(1585)に重胤から数代後裔の葛西三河守信時が素行不良が遠因で改易となり、江刺重恒が跡を継いでいます。
戦国時代末期、豊臣秀吉の天下統一が進むな中、葛西氏は天正18年(1590)に発生した小田原の役で豊臣方に参陣しなかった事から、豊臣秀吉による奥州仕置きによって淘汰され、江刺氏は南部家の家臣となり当地を去っています。
江刺郡は豊臣家に従った木村伊勢守吉清の支配下に入り、岩谷堂城には家臣である溝口外記が配されますが、同年に葛西大崎一揆が発生すると外記は一揆勢に敗れ討死しています。
吉清が一揆の不手際により改易になると、伊達政宗領となり当地には伊達家の重臣である桑折摂津守政長が配されています。
江戸時代に入ると江刺郡は仙台藩領となり、古田伊豆守重直や増田将監宗繁、伊達忠宗(城代制)、古内伊賀守義重・志摩守義如の父子が配され、万治2年(1659)には伊達氏の一族である岩城宗規が領主となっています。
又、一国一城令が発令されると岩谷堂城は廃城となり、代わって仙台藩の行政区の一つである「要害」となり仙台藩領内の北方警護の防衛施設のひつとして重要視されました。
岩谷堂要害の要害町は小城下町のように町割りされ、北上川の舟運の拠点となって事から各地の物資が集積され、周辺地域の経済的中心となりました。
現在の江刺は水沢市と合併し奥州市となりましたが、周囲には奥州藤原氏時代の史跡が多く、観光面での開発に力を入れているようです。
又、江刺中心部では鉄道の普及に衰退したものの当時から周囲の経済の中心地だった事から、多くの町屋や土蔵が現在でも残され、落ち着いた町並みが続き、「まちづくり」にも積極的です。まちづくりには市民の有志からなる「株式会社黒船」が中心となり硝子工房や音楽関係のグッズなどを販売し、行政的にも道路のデザイン化や照明やベンチの設置、土蔵の修景などの町並みの整備を行っているようです。
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