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盛岡市(歴史)概要: 盛岡市は旧石器時代から人々が生活し始めたと見られ、小石川遺跡から当時の石器が発見されています。
大館町遺跡は縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡で、南北約250m、東西約200mの範囲からは約500棟の竪穴住居跡や約1000基の土壙跡等が確認され、貴重な事から岩手県指定史跡に指定されています。
縄文時代晩期の手代森遺跡からは女性を模ったと思われる身長31cm、体幅19cm、厚さ9.5cmの大型の遮光器土偶が完全に近い形に復元され、貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
古墳時代になると、北海道を中心とする続縄文文化圏と、畿内を中心とする古墳文化圏が重なる特異な地域となり一つの遺跡から両文化を思わせる双方の遺物が発見されています。
その後、当地は蝦夷が独自の文化圏を有していたと思われ、上田蝦夷森古墳群からは「衝角付冑」や「蕨手刀」などが見つかり大和朝廷とは異なる生活形態がなされていました。
岩手県南部で繰り広げられたアテルイやモレなどの蝦夷と大和朝廷側の坂上田村麻呂の戦いが終わると、旧蝦夷勢力を一掃するため延暦22年(803)に盛岡市の南西部に志波城を造営します。
志波城の規模は当時の国府だった多賀城(宮城県多賀城市)や鎮守府の胆沢城よりも大きく、城柵を廻すなどの防衛施設も充実していた為、対蝦夷の最重要拠点と考えられていたようです。
しかし、10年後には河川の氾濫、あるいは蝦夷の抵抗などで戦線が維持できなくなり盛岡市より南方にある徳丹城へ機能を移しました。
その後、俘囚の長である安倍氏の勢力が強大になり、盛岡市西部に厨川柵・嫗戸柵の両柵を設け一大拠点を築き周囲を支配します。
朝廷側は源頼義を鎮守府将軍として安倍氏の追討を画策し前九年合戦が始まります。当初は安倍氏が優位に推移していましたが出羽国(秋田県)の俘囚の長、清原氏が朝廷側に付くと、戦局は一転し安倍氏の敗戦が目立ち始めます。盛岡市周辺が最終決戦の場となり安倍貞任は厨川で討死したと伝わっています。
次に支配権を握ったのが清原氏でしたが、内紛が起こり後三年合戦へと発展し、結果的に勝利を収めた清原清衡は藤原氏の祖となり奥州を支配します。
その後、鎌倉幕府は源義経を自刃に追い込み「奥州合戦」では源頼義が安倍氏を討った故事にならい盛岡市の厨川まで進軍し、藤原氏を滅亡させます。
盛岡市を含めた岩手郡周辺は戦功があった工藤氏が厨川館で支配する事となっています。
工藤氏の支配は戦国時代後期まで続きますが、その他にも高水寺城を拠点とする斯波氏や玉山館を拠点とする河村氏一族、不来方城を拠点とする福士氏等の国人領主が割拠しました。
しかし、三戸城を拠点とする南部氏の南下を支えきれず、次第に南部氏の家臣団に組み込まれていきます。
当初、南部氏は三戸城や九戸城を本拠としていましたが、小田原の陣の参陣や「奥州仕置」、「九戸の乱」などに従軍した為、10万石が安堵され、領土が大きく南側に広がっています。
南部氏の拠点である三戸城や九戸城は領内の北側へ偏り過ぎた為、豊臣家に従った蒲生氏郷や浅野長政の助言もあり本城を盛岡へ移す事になります。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原合戦の際、南部氏は東軍に与した為、本領を安堵され、盛岡藩を立藩、2代藩主南部利直によって盛岡城の拡張整備や城下町の町割り等が大規模に行われ、慶長11年(1606)頃には地名を「不来方」から「盛岡」に改称しています。
寛文4年(1664)に3代藩主南部重直が死去すると、嗣子を決めなかった事から後継を巡り混乱し、対立した中里直好に2万石が分知され八戸藩が立藩、8万石となった盛岡藩は七戸重信が継いでいます。
天和3年(1683)には高直しにより盛岡藩は10万石に復し、文化5年(1808)には11代藩主南部利敬が蝦夷地警備で功績を挙げた事で、高直しが認められ20万石となっています。
戊辰戦争の際、盛岡藩は奥羽越列藩同盟に参加した事から、逸早く同盟方を見限り新政府方に転じた、弘前藩領と久保田藩領に侵攻しましたが、形成が不利となり降伏しています。
現在でも盛岡市の中心部には城下町当時の風情が色濃く残り小京都と称されています。
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