奥州市江刺区(歴史)概要: 江刺は交通の要所とされ、盛岡、水沢、北上と各街道が延び、それらが太平洋側に抜ける盛街道と合流していました。その為、江刺は古くから周辺一帯の軍事、行政、経済の中心地とされ、長元年間(1028〜37)には藤原氏3代の祖となった藤原清衡の父親である経清が豊田城を築き、清衡が奥州の押領使となって平泉に拠点を移すまでの居館となりました。中世には葛西氏の一族である江刺氏が岩谷堂城を拠点として江刺郡一帯を支配しましたが、葛西氏宗家が伊達家から領主を迎えた事などから葛西氏と抗争が始まりついには滅ぼされます。その後、伊達系の葛西氏が江刺郡総領職と称し、江刺氏を継ぎ北方の南部氏に対しての守りに当たりましが、戦国末期には豊臣秀吉の天下統一が進むな中、葛西氏は小田原陣に参陣せず、奥州仕置きによって淘汰され、江刺氏も改易となりました。(その後、南部氏に登用。)近世に入ると江刺郡は伊達領となり伊達氏の一族である岩城宗規が領主となり、北方の警護の「要害」のひつとして重要視されました。現在の江刺は水沢市と合併し奥州市となりましたが、周囲には藤原氏時代の史跡が多く、観光面での開発に力を入れているようです。又、江刺中心部では鉄道の普及に衰退したものの当時から周囲の経済の中心地だった事から、多くの町屋や土蔵が現在でも残され、落ち着いた町並みが続き、「まちづくり」にも積極的です。まちづくりには市民の有志からなる「株式会社黒船」が中心となり硝子工房や音楽関係のグッズなどを販売し、行政的にも道路のデザイン化や照明やベンチの設置、土蔵の修景などの町並みの整備を行っているようです。
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