配志和神社(一関市)概要: 配志和神社は岩手県一関市山目字舘に鎮座している神社です。配志和神社は格式が高く日本文徳天皇実録によると仁寿2年(852)に従五位下を賜り、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳(平安時代当時に有力神社を列記した歴史書)にも記載されている所謂「式内社」として知られています。
創建は日本武尊が蝦夷征伐の際、高皇産霊尊、瓊瓊杵尊、木花開耶姫命の三神を祀り戦勝祈願した事から始まりとされます。
当初は磐座山の山頂に祠を建て火石輪神社と称していましたが平安時代後期から末期頃に蘭梅山麓にある中里村に遷座したようで、貞享3年(1686)に蘭梅山中腹である現在地に再遷座しています。
配志和神社は応仁の乱の兵火により大きな被害を受けたと思われ衰微しましたが、慶長6年(1601)に当時の宮司である信慶により再興されています(※再興は天正年間末とも)。
明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て、明治8年(1875)に県社に列したものの明治9年(1876)に郷社となり、大正4年(1915)に再び県社に復しています。
本殿前の2本の大きな杉は「夫婦杉(一関市指定天然記念物)」と呼ばれ一説には配志和神社創建時に植えられれたとも伝わり推定樹齢は1000年を超すそうです。参道の中腹にある庭園は日本百庭園に数えられる庭園で上段に岡池、下段に主庭を配する2段式庭園で晋朴が作庭したとされています。
配志和神社本殿は建築年不詳、一間社入母屋造り、拝殿は正徳元年(1711)に改築された古建築で、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行3間、張間2間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。
配志和神社社殿は工法や組物、欄間などの彫刻に見るべきものがあり一関市内随一の建物と称され貴重な事から一関市指定有形文化財に指定されています。
又、江戸時代の紀行家菅江真澄は天明6年(1786)4月11日に配志和神社を訪れ由来や神事について調べていたようです。祭神:高皇産靈神、瓊瓊杵尊、木花開耶姫命。
配志和神社:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(配志和神社社殿)-一関市教育委員会
・ 石碑(プレート)-一関市教育委員会
・ 現地案内板(芭蕉の句碑)-一関市
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