志賀理和気神社(紫波町)概要: 志賀理和気神社は岩手県紫波郡紫波町桜町字本町川原に鎮座している神社です。志賀理和気神社境内に建てられている案内板の御由緒によると「1.桓武天皇、延暦の昔(訳1200年前)坂上田村麻呂が香取、鹿島の大神を勧請奉納し陸奥開拓の守護神として崇拝した古社である。
2.仁寿2年、文徳天皇は当社に正5位下の神格を下賜された。 3.延喜年間、醍醐天皇の勅命を受け全国神社3131座が延喜式神明帳に登載された。その日本最北に位置し、古来より朝廷の尊崇する社として重んぜられた。
4.前九年の役以降は、この地方を領地せる樋瓜氏、斯波氏、南部氏を始め豪族豪商の崇敬ことの他篤く、明治に郷社更に大正には県社に列し現在は県神社庁指定の一級社である。・・・(後略)」とあります。
志賀理和気神社境内には「赤石」と呼ばれる紫色の大石が安置され、天正年間(1573〜1591年)に当時の領主だった斯波氏が北上川遊覧の際、川底の赤く光る石により紫色の波なった事を受け、「けふよりは紫波と名づけんこの川の石に打つ波紫に似て」と詠んだとされ、神意と悟り荒廃していた志賀理和気神社を再興し「赤石大明神」と呼ばれるようになったと伝えられています。地名である「紫波町」はこの故事が由来になったとされます。
斯波氏は天正18年(1590)の小田原の役に参陣しなかった事から改易となり庇護者を失い再び衰微しましたが、明暦3年(1657)に盛岡藩主南部重直が荒廃した当社を発見し再興を図り、「南部一の宮」として崇敬庇護しました。天明5年(1785)には江戸時代の紀行家として知られる菅江真澄も訪れており、著書「けふのせば布」にその旨を記してます。
志賀理和気神社参道には「南面の桜」と呼ばれる桜があり案内板には次のような伝説が書かれています。「この桜には、いつのころからか次ののような物語が伝えられている。元弘のころ、都からこの地に下った藤原頼之は、河東の領主 河村少将の娘、桃香と相思相愛の仲となった。ある日二人はこの社領に桜を植えて、やがてくるであろう爛漫の春をひそかに夢見た。
ところが二人は悲しい日が訪れた。頼之が急に都に上ることになったのである。二人は再会を固く誓って別れた。歳月は流れ、かつて植えた桜はもののみごとに咲いていました。やるせない桃香の心が桜に宿ったものであろうか。 柴波町・柴波町観光協会 」とあります。南面のサクラ ・ ヒガンザクラ群は貴重な事から昭和50年(1975)に紫波町指定天然記念物(植物)に指定されています。
志賀理和気神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行6間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り、正面に「志賀理和気神社」の社号額が掲げられています。本殿は一間社流造、銅板葺き、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り、縁には木製狛犬が安置されています。祭神:経津主神、武甕槌神、大己貴神、少彦名神、保食神、猿田彦神、船霊神。
志賀理和気神社:上空画像
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